「田園交響楽」(ジッド)①

なぜ彼女は死ななければならなかったのか

「田園交響楽」(ジッド/神西清訳)
 新潮文庫

身よりもなく、
全く無知で動物的だった
盲目の少女ジェルトリュードは、
牧師に拾われ、その教育の下で
しだいに美しく
知性的になっていった。
しかし待ち望んでいた
開眼手術の後、
彼女は川に身を投げて
死んでしまう…。

カバー裏の「あらすじ」です。
衝撃のラストまでばらしてしまう
罪深き紹介文は、新潮文庫の得意技。
超名作ですから
かまわないのかも知れませんが。

当然、ここで考えるべき点は、
「なぜジェルトリュードは
 死ななければならなかったのか」
ということになります。

考えられるのは、
自分の存在が牧師の妻を
傷つけていたことを
知ってしまったことでしょう。
「あたしが平気ですわっていた場所は、
 ほかの女の場所なのでしたし、
 しかもそのひとは、そのため
 心をいためておいでなのでした。」
「あのひとの顔が目の前にあらわれて、
 あのやつれたお顔にたたまれた
 なんともいえない
 悲しみの色を見たとき、
 それもみんな
 あたしのせいなのだと思って
 あたしもう
 たまらなくなってしまいました。」

でも、それだけなら
何も死ななくても
身を引くだけで良さそうなものです。

ジェルトリュードは
そう話したことを否定した上で、
さらにこう告げます。
「あたしが見たのは、
 あたしたち二人のあやまちでした、
 二人で犯した罪でした。」

こうなると現代の我々には
いささかわかりにくくなります。
二人はいわゆる
不倫をしたわけではありません。
極めてプラトニックな愛情で
結ばれていただけです。
でも、それさえも「罪」であるとは。

彼女が深い罪を自覚したのは、
彼女がキリスト教の教義を十分に
身に付けていたからなのでしょう。
たとえ身体的な交わりがなくとも、
妻子あるものを愛し、
妻子あるものから愛されただけでも
死に値する罪なのだと
いうことでしょうか。
一方、キリスト教自体は
自死を固く禁じているはずでは?という
疑問も同時に生じてきます。
宗教に疎い私には、
何とも理解が難しい部分です。
もしかしたら、作者・ジッド自身が
宗教上の葛藤を
抱えていたのではなかったか、
そんなことさえ考えたりもしました。

彼女を死に追いやったのは
「視覚」と「宗教」ということに
なるのでしょうか。
牧師が情熱を傾けて
彼女に与えたものが、
逆に彼女の死を招いてしまう。
何度読んでも
やるせない気持ちでいっぱいです。

(2020.3.16)

pasja1000によるPixabayからの画像

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